この記事を書こうと思ったのは、この写真を目にした時です。

この写真は、フランスのブルターニュ地方の地方紙「Le Télégramme」の記事の見出しに使われていた写真です。日本から蠣崎優仁選手も参加していた一昨日開催の「La Flèche Bigoudène」という129kmの第1カテゴリー(アマチュアの中で、「エリートナショナル」という最高クラスに次ぐレベル)のラインレースのゴールシーンで、既にブルターニュ地方のプロチーム「Arkéa Samsic」でのプロ契約が確定している2位のEwen Costiou選手と3位のMathis le Berre選手の2名がチームメイトのLomig Le Clec’h選手に勝利を譲る瞬間です。この選手は3名とも「Côtes d’Armor – Marie Morin」というブルターニュ地域の強豪チーム(因みに、2018年に日本に来てくれたエンリック・ルバース選手の所属チームでもあった)で、他には4位、5位、6位、8位、9位も同チームの選手になっています(右側の選手が別ジャージを着用しているのは、ブルターニュチャンピオンジャージを着用しているからです)。要するに、7位と10位以外、トップテンは全選手同じ所属になります。
新聞紙がいつものようにFacebookで(有料!)記事を投稿したところ、「いいね」が657件も集まっていました。
これは、様々な側面で本当に「自転車文化」というものを物語っているな、と思ったので、その背景にある環境を記事にしようと思いました。
この中で、「自転車文化」がどのように現れ出ているかといえば、
・プロでも、アマチュアの最高レベルでもないのに、大会の内容を把握できて、600名以上の読者がリアクションをすること。
・この大会は130km近くのラインレースなので、フランスの場合は自治体が細かく分けられているため、関連している自治体が恐らく30つ以上(東京五輪の場合は合計15市町村)。ブルターニュではこの時期、毎週2~3回ラインレースが地域内で行われている。
・リザルトを見るだけですぐ分かるが、このレースを決めたのは、序盤にできた「エシュロン」の展開でしょう。エシュロンとは、強い横風が吹く際に、風の反対側ギリギリでローテーション走行(先頭交代)をすることで、その後ろの選手が強い風を受けざるを得ない状況をあえて作り、集団を分裂させる戦略です。非常に高度な技術が問われますが、風が強いこの時期は、今回のように成功させて、1位から10位まで独占するチームがちょこちょこ出てきます。
本大会に出場した蠣崎優仁選手が、大会前にコース分析した際に、こちらの投稿をしていました。
当然フランス語ですが、上記の記事とFacebookの投稿も参考に共有しておきます。
日本サイドでは「自転車文化の違い」という、曖昧な言葉で「日本と世界の差」を簡単に片づけてしまう傾向がありますが、「文化」というのはあくまでもプロセスの結果であり、プロセス自体ではないので、そうしているうちに、本当の原因を見逃してしまっているように思っています。従って、今回は「自転車(競技)文化」をどう醸成させているのか、「本来の原因」と思われる決定的な違いについて簡単に述べてみようと思います。
この決定的な違いは、「ガバナンスの違い」だと思っています。
全てがそこに終着しているのではないかと思っているので、なぜそう考えているのかについて述べていこうと思います。
スポーツにおいては、「ガバナンス」と「文化」は全く違う側面だということを皆さんも良く理解できると思います。スポーツの「文化」はスポーツが社会に溶け込む過程で生まれるものですが、都合が揃えば天から降るわけではなく、計画的な「成長戦略」を経て少しずつ醸成されていくので、注目すべきなのは、どのような成長戦略を展開していくのか、つまりガバナンスをどう行っていくのか、という点でしょう。
結果的には、「多くの観客が集まり、一般社会でも関心度が高い状態」「大会数が多く、目に触れる機会も強化や経験をする機会も多い状態」「世界基準の選手がシステマティックに地域から生み出される状態」を「文化」と呼んでいることを上記の説明でご納得いただけたと思いますが、まず、「世界基準の選手がシステマティックに地域から生み出される状態」の観点からいうと、当然ながら「世界基準」というものを正確に理解し、それを軸に戦略を立てる必要があります。そして、既存の仕組みに繋げていく必要があります。幸いなことに、国際自転車競技連合(UCI)がその基準を明確に作って統一してくださっている(UCI規則)し、世界各国に繋がるパイプも用意してくださっています(NF=日本の場合はJCF)。
ということは、UCIが用意してくださっている国レベルの組織(日本の場合はJCF)が中心となってガバナンスが効いていて、明確な戦略が提示されていることが全ての前提になるということです。但し、日本の場合はその時点で道を外れており、「文化」が定着しない原因はその一点に尽きるということを下記説明したいと思いますが、説明のため、「NFがガバナンスを行い、成長戦略を立てている状態」を「本来の形」と呼ばせてください。
次に、「大会数が多く、目に触れる機会も強化や経験をする機会も多い状態」「多くの観客が集まり、一般社会でも関心度が高い状態」とあったと思いますが、「質の高い大会が多く開催される状態」を生み出すためには、開催に対するハードルを下げる必要があると思います。この側面に関しては、日本の場合よく挙げられている「責任問題」「道路使用に対するハードル」は否めませんが、このようなことを言い出せば卵か鶏かの話になってしまうので、表面的なことに着目する以前に、日本以外の世界各国がどのようにして質の高い大会を(比較的に)開催しやすい状態を作ってきたかについて考えてみて頂きたいと思います。
「本来の形」では、UCIが用意してくださっているNF(ナショナルフェデレーション)が「レースを開催できる」環境を整えています。具体的には、様々な対策があるので、それぞれ簡単に取り上げていきますが、総じていうと「自転車に関わる全てを管理できる仕組み」を構築することです。
つまり、どの大会であっても、開催を考える際は必ずNFに企画書を提出し、NFが把握する状態を作るということです。
それが可能になるのは、NFを通すことで下記の特典を得ることができるためです。逆に、NFに全国全ての大会の情報が集まってきて初めて、下記の特典を生み出せるようになるので、この好循環を作り出すこと、この一点に尽きると思います。
主な施策を一つ一つ取り上げていくと下記のようになります:
・ルールの一本化:カテゴリー分けから競技規則まで、NFが全て定義している。そうすることによって、主催者から競技規則やカテゴリー分けに悩み時間を割る必要もなければ、参加者にとっても分かりやすくなり、参加しやすくなる。
・スケジュールの管理:NFのホームページ、又は地方連盟のホームページでいつでもリアルタイムで閲覧できる。そうすることによって、主催者が広報やPRに予算と労力を割る必要もなくなるし、参加者が近隣の大会をすぐに見つけることができ、参加しやすくなる。
・競技団体の管理:個人登録ではなく、競技団体(クラブ)の登録制度を導入することで、競技団体を立ち上げ運営するハードルが下がり、そのクラブが中心となって地域の自転車競技を推進していくので、自然と大会主催者の主体になっていく。
・エントリーシステムの構築/提供:クラブを中心に登録手続きを管理していけば、同じ仕組みを使って大会のエントリーシステムをNFが構築し、無償提供できるようになる。それによって、スポーツエントリーのような民間サービスを介する必要がなくなり、募集の窓口までNF(又は地方連盟)が担ってくれるため、主催者は一切管理必要がなくなる。また、参加者としてもエントリー情報の入力はライセンス申請時に一度だけ入力してしまえば、あとはいつもクリック一つでエントリーできる。
・ランキング/カテゴリー構築:全国の大会情報が集まっており、ルールとスケジュールが一本化されていれば、次にできるようになるのは公平なカテゴリー分け。参加者のモチベーションアップ、選手層の肥厚化に繋がるので、登録者数の増加にも繋がるし、世界基準をきちんと把握し取り入れていけば、国内レベルで構築されたピラミッドの頂点が世界と繋がってくる。
・審判の派遣、計測システムの提供:日本の場合、競技の管理(主管団体)は主催団体が兼ねることが多いが、「本来の形」では、大会企画書を届け出る時点で、NFの下部組織がそれを負担してくれるのが一般的。そのため、専門知識や専用の機材が必要になるこの分野に、主催者が観入する必要が一切なるなり、本業に集中できる。
上記のような好循環を生み出した先に現れる二時的効果としては、エントリー料の低下、ということは競技人口と参加大会数の増加、大会数の増加なども挙げられます。
誤解のないように改めて申し上げますが、これはフランスの話ではありません。NFを中心に国内の競技環境を構築している、日本以外世界全域の話です。「本来の仕事」であるはずの、競技環境のガバナンスをNFが行っていないのは日本と発展途上国ぐらいですが、その時点で「自転車文化の違い」を国内の競技環境が発展しない原因に掲げてもしょうがないと思いますし、それをいくら民間団体が担おうとして市場に参入しても、価値観がますますバラバラになっていくだけで、改善するどころかガラパゴス化が進んでいくだけではないかと考えています。
その中でも、バラバラになっている業界を一つにし、競技文化の発展や文化の定着を目指すのであれば、国レベルではなく、現場レベルで課題をちゃんと把握し共通の認識を生み出していかないと、いくら騒いでもまとまる方向に進むことはないのではないかと思います。